子ども新聞デスクの頃、さまざまな加害から子どもが身を守る方法を専門家に聞く記事を出した。記者が書いてきた原稿やポイントを一覧にした表を読んで、内容はうなずくことばかりなのに何か引っかかった。嫌なことをされたら嫌だと言っていい。信頼できる大人に話してもいい。「してもいい」ではなく「しましょう」の方がふさわしいのではないかと思ったのだ。
書き直してもよいかと記者に尋ねると、取材相手がこの言葉遣いだった理由を以下のように話してくれた。嫌なことをされたとき、子どもたちはまず自分の気持ちを抑え込もうとする。ずっと「〜しましょう」と言われてきているので、「嫌だと言わなければならない」と重荷に感じて結局言えなくなる。まずは「言ってもいいし、言わなくてもいい」と、自分が選べることを知ることがスタートなのだと。
思えば子どもというものは、指示と禁止の世界で生きている。どうしたいか聞かれることはほとんどない。嫌なことをされたら嫌と言いましょうと放り出すのは、指示される世界でもう一つの指示を与えたにすぎない。
ここから話は飛躍する。18歳選挙権になった頃、さめた気持ちと少しの苛立ちを感じていた。高校では選挙制度の講話があったり、模擬投票が行われたりしていた。若者の投票率が低いとか、政治に関心がないとか、そんな記事を読んでいると空空しいと感じた。スカート丈は膝の中心とか、寒かろうが上着を着てはならんとか、理不尽なルールに従わせている一方で政治参加せよと言っても無理な話だ。
復帰50年に合わせて復帰運動の写真を多く見た。制服を着た若者たちの目の力が印象的だった。この島の行く末を決めることに自分たちもかかわっていいのだという思いが、その後の沖縄の政治風土をつくってきたのだろう。若い世代に政治参加させたいなら、まずは指示と禁止の世界から解放することだ。