見立てられる側の心情

「○○のメッカ・聖地」などの例えを記事でよく使ってきた。イメージしやすいと考えていたからだ。でも、ある時期からやめた。きっかけは「里親」だった。

勤めていた新聞社に里親の会の代表が訪ねて来て、要望を伝えた。当時、犬や猫の譲渡会が盛んになっていて「子猫の里親募集」などと記事になっていた。里親さんたちにしてみれば、犬や猫をもらって育てることを同じ里親という言葉で表現されると心乱れたのだろう。直接対応したわけではなく、情報共有があって知った。初めは、共有物である言葉を使うなというのはおかしいと反発も感じた。ただ、いざ書こうとするとそのことが思い出されて、文字通りの里親の記事以外では書かなくなった。犬、猫の譲渡会なら「里親」を使わなくても書けると思えたからだ。

ずっと後のことになるが、「ソウルフード」も使わなくなった。沖縄そばだったか、そんなものの記事を書く時に、枕詞的に「沖縄のソウルフード」と書いて、ソウルフードって実際には何だろう?と検索してみた。結果、執筆が滞るほど読みふけってしまったのだが、アメリカの奴隷制に端を発するような言葉を、こんな軽い記事に使う必要もないなと思い、ソウルフードは使わずに書いた。すでに愛着ある郷土料理という意味に派生しているし、ほかの人が書くことになんの抵抗もないが、自分では使わないというところに落ち着いている。

表現を自ら縛っていると言われればその通りではある。ただ、考えてみると、こういった例えや見立ては文章を華やかしたり、やわらかくしたりするための修辞だ。使わなくても伝わるし、多く使われると陳腐にもなる。ほかの表現が閃かないかと語彙の倉庫を漁ってみて、見つからなければ無愛想でもいいやと思って書き進める方がよい、というのが今の姿勢だ。

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