「暴力は感染症」〜例えの功と罪

「暴力は感染症なんです」。初めて聞く言い回しだったので、一瞬戸惑った。暴力を振るった加害者の更生に携わる人の言葉だ。ちょうど新型コロナウイルス感染症が流行した後のことで、透明の膜とマスク越しに聞いた。アルコールで手を洗う日常を思い浮かべたら、すぐに納得がいった。

家庭で暴力を受けていた子が全身の血を入れ替えたいと言ったという。自分も暴力を振るうようになってしまうかもしれない。その恐れからの言葉だと思うと、紙面企画の打ち合わせだというのに涙がこみ上げてきた。

「暴力・虐待の連鎖」と新聞は書いてしまう。暴力が世代を超えて伝わっていくさま、本人だけの責任にできないことをイメージするために有効な例えだと思う。と言うよりも、目に見えない概念は図式にしたり、見えるものに例えることでしか我がものにすることはできないのではないかと思う。一方で、その例えに心を痛める人がいる。連鎖の中にいる人を思い描くことは、それまでの私にはできなかった。

そんなとき「暴力は感染症」という新しい例え、考え方に出合った。暴力が日常にある環境では、問題解決に暴力を選びやすいのかもしれない。でもそれは必然ではない。遺伝でなく、感染するものだと考えれば、感染しないよう対策を取れば避けることが十分にできる。

例えは便利だけれど、しょせん全く違う物事を並べているに過ぎない。違う部分にこそ、それぞれの事物の本質がある。例えは使うときも、受け取るときも、気をつけなければならない。

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