「奴隷の作文」 共感と悔悟

例によって文章に関する本を読んでいる。予告したパラグラフ・ライティングの続きは、ちょっと後回し。今回は清水良典さんの『自分づくりの文章術』(ちくま新書、2003年)から。

清水さんの娘さんが中学1年生の頃、罰として反省文を翌日までに原稿用紙10枚書けと教師に命じられたことがあるという。本では、当時の憤りは「あえてここには描写しない」として、この経験の「教育効果」を挙げている。第一に文章を書くことは労役であると記憶されること、第二に「文章とは自分で好きなふうに楽しんで書くものではなく、誰か指導的権限を持った人物から内容や期限や枚数を定められ、評価と交換に無理やり書かされるもの」という教訓を与えるのが「効果」だと記している。この節のタイトルは「奴隷の作文」である。

書かされる作文の例に読書感想文を挙げる。

評価されない惨めな書き手と、みごと評価を獲得して得意になった書き手と、両者は一見反対の立場になったように思える。しかし、じつは両者は同じ文章の書き方を学習したにすぎないのである。

それは、文章が目に見えない権限や権威によってつねに強いられたり裁かれたりするものであって、書き手はその仕組みに隷属し適応するしかない、という一種の処世術のような態度である。ダメな奴だと辱められるか、よくやったとご褒美を与えられるか、どちらにしてもそれは、抑圧下での奴隷の作文でしかないのだ。

『自分づくりの文章術』(清水良典)

どきりとした。自分や我が子の経験を思うと納得する反面、自らも「権限や権威」だったからだ。在職中は新聞記事を読んだ感想文コンクールの下読みをする仕事もあった。千点余りの作文を段階を踏んで選別していく。清水さんの言う処世術を感じる作文は落としていく。こちらが処世術を強いていると薄々感じていたものの、こうもはっきり指摘されると悔悟の念が湧く。

ただ、最終審査に残した作品の中には光るものがあったのも確かだ。書いた子に会って話を聞いてみたいと思った作品は賞に選ばれていた。奴隷の作文という枠の中ではあるものの、清水さんの言う「自分づくりの文章」につながるものがあったということなのだろうと思う。

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